柚木×香穂子
あまあま
"ごめん日野さん、後でね"なんて、ひどいじゃない。
「先輩のばかっ!」
第一声がこれって、我ながら最低。
「ほら、静かに。」
先輩は気にする様子もなく人差し指を口元に当てた。
先輩が移動のときにいっつも乗るリムジンは、今回ばかりはどこにもない。
夜中…といっても日付はまだ変わっていないけど…に突然の先輩からの呼び出し。
外で待ってるから5分で来い、なんて無理な要望に、私は腫れた目を治す暇もなく表に出た。
二月半ばの寒空の中、黙って私の手を引いて歩く柚木先輩に腹が立って、
口の中に残るチョコの苦味に涙が出る。
冷たい空気の中唯一暖かい先輩の手のぬくもりが、冷えきった私の血流を一気によくする。
昼間遠かったぬくもりだった。
私はその存在を確かめるように先輩の手をぎゅっと握った。
優しく握り返してくれる先輩は、今私のそばにいる。
それだけでいとも簡単に解けていくモヤモヤした感情。
嬉しいやら恥ずかしいやらであふれてくる涙を懸命に拭いながら、私は黙って先輩のあとに続いた。
「家の人にはうまく言ったか?」
先輩が振り向かずに訊く。
「…コンビニ行くって言ってきました。」
声が震えてしまわないように精一杯気張って答えた。
先輩は私の涙声に気付いているだろうに、やっぱり振り向かずに黙って歩く。
なんだよこのぅ…
女の子泣かしといて、先輩のばかーっ
なんだかすっごく悔しくて、力いっぱい先輩の手をぎゅぎゅぎゅ~っと握った。
「痛い痛い痛い痛いッ!!」
悲鳴を上げたのは先輩でなく私。
私の攻撃を素早く察知した先輩が、容赦なく返り討ちに遭わせた。
女と男なんだから当然だけど、リーチの差で私のぼろ負け。
ますます悔しくて内心地団駄を踏んでいると、柚木先輩の足が突然止まった。
私は若干つんのめりながら、先輩の隣に立って、その横顔を見上げた。
暗がりでその表情はよくわからなくて、遠くに見える街灯が白く光るだけだった。
先輩の表情を読み取るのは諦めて、私は立ち止まったその場所に目を凝らす。
ふんわり鼻をくすぐる風は潮の香り。
地面に敷き詰められたタイルは硬くて、点々と申し訳程度に存在する街灯が、特徴的なオブジェを照らしている。
「公園?」
言われてみれば歩いていた道は公園への道のり。
だけどこんな夜になぜ?
さすがに今日ばかりはみんな屋根のあるところで愛し合っているらしく、いつもなら夜はカップルだらけのこの公園も、ほとんど人影がない。
その真意をはかりかねて先輩の行動を待っていると、先輩は街灯から少し離れた、明るくも暗くもないベンチに座った。
慌てて隣に座ると、先輩はやっとまともに口を開いた。
「悪いな、こんな時間に呼び出して。」
昼間まともに見ていなかった先輩の目を、久しぶりに見た。
先輩のいつもの冷ややかで暖かいまなざしに、自分の目が腫れていたことを思い出す。
「いえ、大丈夫です。」
私はなんだか急に恥ずかしくなってうつむいた。
「でも、なんでここなんですか?」
こんな時間だし大したところには行けないけど、今にも雪が降ってきそうな寒さの中でベンチに座っているのは、ちょっと骨が折れる。
こんな時間に開いているお店と言えば…
「俺がファミレスに行くと思うか?」
考えを読まれていたらしい。
「…思いません。」
先輩はクスクスと笑って言葉を続けた。
「こんな時間に会うにはここしかないだろう。確かに少し寒いのは戴けないが…」
ぐいっと、先輩が私の肩を引き寄せる。
「こうしてれば、問題ないだろう?」
耳元で囁く声は確かに、私をあついくらいに暖めた。
私の胸は大暴走していると言うのに、すぐそばで鳴る先輩の心臓はなんの異常も来してなくて、
私はひとりで喜んでるのかこんちくしょう、なんて内心ぷんぷんしながら、
口から出るのは甘い雰囲気に挙動不審な私の精一杯の感想。
「問題ない…ですか?」
「もっと暖かい方がいい?寒がりだね、香穂子は。」
何を思ったのか、柚木先輩は私の身体をさらにきゅっと引き寄せて、
さっきよりも更に、口がついてしまうんじゃないかと思うくらいの耳元で、
親衛隊の女の子が聞いたら失神でもしてしまいそうな声で囁いた。
「そっ、そう言う意味じゃ…」
反論しようとすると、先輩は私の耳元に小さくキスをした。
びくんと反応してしまう私に先輩はクスクスと笑って、その笑いは私の耳をくすぐるから、私はますます熱くなって心臓は暴れ狂う。
続いて追い討ちをかけるようにくちびるが重なる。
「ん…っ」
どっくんどっくんと大暴れする胸と嫌でも感じてしまう先輩の存在に、まさに骨抜き状態。
「…チョコの味がする。」
甘い甘いキスが終わって、先輩がぼそりと呟く。
…しまった。
「た、食べちゃったから…先輩のチョコ。」
正直に白状すると、先輩はニヤリと笑った。
「ふぅん…どうして?」
そんなの言わなくてもわかってるだろうに、どSモードの発動した先輩は、瞳に黒い光を宿して私を見つめる。
「だ、だって…」
口ごもる私に先輩は容赦なく視線を浴びせる。
「悔しかったんだもん」
「何が?」
「親衛隊の女の子たち」
「どうして?」
先輩は誘導尋問のように質問を繰り返す。
「だって…彼女なのに、私。」
それはただの嫉妬。
知りたくなかったみにくい感情。
「彼女なのに?」
「渡したかったの、チョコ。」
近付くことすら出来ない。
「私彼女なのに、ファンの子の方が優先なの?」
ボロボロと感情が溢れだす。
「どうしてにこにこチョコを受け取ってる先輩を見なくちゃいけないの?」
私だって渡したかったのに。
"ごめん日野さん、後でね"なんて、ひどいじゃない。
堪えようもなく涙がボロボロとこぼれる。
今日何回目の涙だろう。
先輩は私の涙を指で拭いながら、疑問符を投げかける。
「どうして見たくないの?」
わかりきっていることを、よそいきの優しい口ぶりで、人を諭すように先輩は訊いた。
その声を聞いて私は確信する。
このしたたかな人はこの質問を待っていて、私の単純な答えを聞きたいだけなんだ。
「…好きだからです、先輩が。」
どくんと跳ねる鼓動を聴く。
私のものなのか、私を抱く彼のものなのか。
「独り占めしたいんです。だめですか?」
再び跳ねる鼓動は、たぶんふたりのもので。
ぎゅっと私を抱きしめる先輩は、私だけのものだった。
にやりと満足そうに笑う先輩のくちびるが再び近付いて、チョコよりも苦くて甘いやわらかな味が口いっぱいに広がった。
寂しさとか不安とか、腹立たしさとか、
先輩は全部きれいに吸い取って、優しい気持ちで包んでくれる。
どきどき跳ね回る心臓も優しいあなたに向かってて、
微かに早くなったあなたの鼓動は、私のせい。
結局私はこの人が大好きなんだなぁと、しみじみ思う。
きつい言葉は愛情の裏返しで、親衛隊なんて面倒なだけだ、とか言いながらちゃんと大事にしてる。
バレンタインは、親衛隊のみんなへのお礼の日。
ちゃんと受け取って、ホワイトデーにはひとりひとりお返しをする。
いつだったか、面倒臭そうにしながらも、優しいまなざしでそう言っていたことを思い出す。
妬いちゃうけど、こうして抱きしめてもらえるのは私だけだから、許しちゃおうかな。
冷たくてあったかい先輩が、私は大好きなんだから。
「さて、香穂子?」
先輩が、ぼうっとする私の頭に話しかける。
「おれは、お前からチョコはもらえないわけ?」
どSモードはまだ発動したままらしく、鋭い笑みを浮かべて先輩は尋ねた。
「…え?」
食べちゃった、って言ったじゃん。
「悲しいなぁ…。日野さんからもらうチョコ、一番楽しみにしてたんだけどな。」
表情をコロッと変えて、寂しそうに顔をしかめる。
それがわざとだって知ってはいるけど、私は先輩の演技に毎回振り回される。
「ごっ、ごめんなさいっ!!」
先輩の何かを訴えかける目にたえられなくて、私は謝罪の言葉を並べる。
「来年は、絶対、あげるから…!」
なんとかフォローしようと、来年の約束。
だけど先輩は満足いかないようで、王子サマの微笑みのまま、どSが顔を覗かせる。
「コンビニ行ってくる、って言ったんだよね?」
初めて先輩に含んだ言葉を言われたときのよう。
何を言いたいの?
「今からあげよう、とは思わない?」
要するに、チョコの催促。
あまりに先輩らしくない要望に、思わずあ然としてしまう。
「ほら、送ってあげるから、買っておいで。」
先輩はそう言うと私の手をひいて歩き出す。
「せ、先輩…」
「なぁに?」
先輩の言葉に含まれる、自分は間違ってないって、自信。
「いえ、なんでも」
やり方は強引だけど、先輩にチョコを渡せるんだと思うと、嬉しかった。
私がいちばん好きなチョコをあげよう。
けして高級なものじゃないけど、きっと美味しいって思ってくれるはず。
「…俗に言う、10円チョコ?」
明らかに不服そうな顔で、箱買いされたチョコのケースを見つめて先輩は言った。
「…です、けど、聞いてください先輩。」
予想通りの反応とはいえ、やっぱりちょっと焦る。
「このチョコ、大好きなんです、私。」
先輩はめずらしそうに箱の裏を眺めながら、私の話を聞いている。
「高級なものあげるのは、親衛隊と変わらないような気がするし…」
ふっと視線をあげた先輩の目をとらえる。
「おいしい、って一緒に感じたかったから」
先輩が、少し驚いたように私を見た。
一拍おいてから、先輩は下を向いてチョコの箱を開けながら言った。
「そうだね、おれにこんなもの渡すのはお前くらいだ。」
包みをひとつ開いて、小さなチョコを口に入れる。
「おいしいよ。ありがとう、香穂子。」
優しいまなざしで言われた言葉に、私は嬉しくなる。
「ほら、きみも食べて?食べたかったんでしょう?」
そう差し出される小さな包みを受け取って、口に入れる。
先輩の口の中と、同じ味で満たされる。
ひとりで食べるときよりもっと、幸せの味。
「えへへ、先輩、大好き。」
うっかり口を滑らせた。
先輩はうっかり出てしまった言葉だなんて関係なく、私を抱き寄せて
「おれも好きだよ」
うんと優しい声で囁いた。PR